鉄道の発展を支える分岐器の要
マンガンクロッシング

現場至上主義

 永廣がマンガンクロッシングに携わるようになったのは、新幹線の分岐部にノーズ可動クロッシングが採用されて程なくしてのことであった。永廣は、採用されたクロッシングを追いかけるように、保守点検や調査にと日本全国を駆け巡る日々を送った。
 交差した線路上を列車が高速で通過する分岐部は、ともすれば脱線などのトラブルの元になりかねない。そんな危険をはらんだ条件下で、安全な走行と快適な乗り心地を支える分岐器を提供するには、設置後の保守点検は必須の条件であった。また、クロッシングの場合、例え同じ形、大きさのものを製造しても設置した現場の条件によって、使用後の状況は異なってくる。最適なクロッシングの開発、設置の方法等は、現場ごとにケースバイケースなのである。
こうした理由から、永廣は設置現場へ足を運ぶことを厭わず、現場での情報を重視した。そして、現地での入念な保守点検を行う一方で、さらにその情報を反映し新たなクロッシングの開発を行うという、大変な活躍ぶりを見せた。
 大同のマンガンクロッシングは、新幹線に限らず、線路という線路に活躍の場を見出し、それに伴い永廣は息つく暇もなく、日本全国を縦横無尽に駆け巡る。国内ばかりではない。中国鉄道省から製造技術の供与を求められれば現地まで出向き、培った技術を余すところなく伝えることに尽力した。輸出拡大方針のもと受注を獲得した米国・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・香港・韓国・ヨーロッパなど世界各国の線路にも足を運んだ。とにかくことあるごとに現地に足を運び、実際の現場を理解したうえでの分岐器提供にこだわるこの姿勢と、それにより築かれた厚い信頼は、高い品質とともに評価され、大同のマンガンクロッシングは盤石の地位を築いていった。同時に、業界内ではクロッシングの設計・開発に当たってはまず“Mr.マンガンクロッシング”に相談を持ちかけるという図式が自然と出来上がっていた。
 

造るは易し、運ぶは難し

 そんな永廣の元に、分岐器メーカーからあるオファーが舞い込んだ。オファーは、群馬県高崎に位置する上越・北陸新幹線の分岐に使用される分岐器を求めるもの。このとき必要とされていたものはかつてない代物であった。つまり、日本初にして最大、そして最速の通過速度に耐えうる分岐器の開発を迫られたのである。
 しかし、この前代未聞の分岐器を作るには、技術的にクリアしなくてはならない問題が数多くあった。上越・北陸新幹線では、従来の新幹線の倍の分岐部通過速度が必要であった。従って、分岐器の長さ、クロッシングの長さも従来の新幹線に採用されていた約12mから19mを要することになる。しかし、製造可能なマンガンクロッシングの長さは約12m…。無理難題を突きつけられた形ではあったが、“Mr.マンガンクロッシング”の頭に打開策が浮かぶまでにさほど時間はかからなかった。永廣が選択できる方法は一つ、分割して製造したものを溶接して一体化するという方法であった。
 「溶接して使用すること自体はさほど心配してはいませんでした。これまでにも、線路に固定された状態ではこの方法を採用した実績もあったので。ただ、今回は線路に固定しない部分で溶接することと、これまでにない大きさに搬出の際に苦労しましたね…。」
と、永廣は当時を振り返る。
切削作業風景
▲ 切削作業風景
 果たして、築地工場では試作品の結果から改良に改良を重ね、遂に全長22mにわたるマンガンクロッシングを築地工場で作り上げた。永廣が自信を見せたとおり、溶接はほぼ問題なく成された。しかし、問題はその大きさである。まさに「造るは易し、運ぶは難し」の状況である。一体化されたクロッシングの大きさに工場の大きさが対応できない。結局工場の壁を破るという強攻策を講じた。工場の壁を破り現れた22mにわたる巨塊が、トレーラーの背に乗り工場中をうごめく姿は、壮絶なものであった。
 その後、分機器メーカーに納入されたクロッシングは、加工、設置上の都合により一旦分割した形に戻し、現地で再度組み立てられることとなった。現地でレールとの接合を行う権利は永廣ら大同陣には許されていない。入社以来、数々の現場を経験した“Mr.マンガンクロッシング”永廣も、前代未聞の大仕事を前に、自らの手を下せないとなってはさすがに不安を隠しきれなかった。しかし後は祈るだけというわけには行かず、やはり現地に足を運び、実際に作業を行うJR関係者や分岐器メーカーのスタッフに、これまでの大同のノウハウを駆使し、接合に関する指示を事細かに伝えた。
 また、設置作業が進む段階ごとにチェックを重ね、できる限りのサポートを行い、夢の超巨大高速分岐器の成功にむけ尽力したのである。
 その後、技術の粋を結集して創り上げられた「北陸新幹線高速分岐器38番」は、1997年、遂に設置された。走行実験では、固唾を呑み緊張の面持ちで見つめるスタッフたちの眼前を列車は颯爽と走り去り、設計速度の160キロを上回る分岐通過速度180キロまで達成した。まさに日本初最大最速の分岐器誕生である。
 38番分岐器は未だに最も巨大で、最速の通過速度に耐える分岐器である。記録的な分岐器の実現に大きく貢献した大同のマンガンクロッシング。2002年には大同キャスティングスがその歴史を引き継いだが、圧倒的なシェア、高い品質ともに現在も変わることがない。しかし、永廣らがこのシェアと品質に甘んじることはない。
 「マンガン鋼と普通レールという2つの異種材料を溶接する上で、さらに改良が必要だと思っています。高速化の波は新幹線だけでなく在来線にも広がっている。路面電車に代わって地下鉄道が広がっている。マンガンクロッシングの活躍のフィールドはまだまだありますからね。」
 そう語る永廣のその瞳の先には、日本各地へ、地下へ、そして海外へとまた次なる線路が映し出されているようだった。
 
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MOVIE
 ビデオ「STEEL CASTINGS ─未来を拓く鋳鋼品」(41Kbps 1:06)
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