日本の特殊鋼業界の歴史的瞬間―
石井健一郎の決断 WITH YOU Vol.53 平成18年夏号掲載

 
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大同特殊鋼 第8代社長 石井健一郎    

 大正・昭和のまさに激動の時代、世界的紛争や、恐慌、震災等と混乱の続く社会の中で大同特殊鋼は、幾多の試練を越えて生き抜き、今日の地位を築きあげてきた。その長い企業の歴史を絶やすことなく発展へと導くことができた勝因のひとつ、それはなんと言っても傑出した人財の確保であったろう。  90年におよぶ大同の歴史の中で、“人”に関する大きな山が2度あると言われる。そのひとつは、前号までご紹介してきた創業者、福沢桃介。そして日本における特殊鋼の歴史を切り拓いたこの桃介と並び、名を挙げられる人物が、石井健一郎である。  石井は昭和33年、大同製鋼(大同特殊鋼の前身)社長となり、就任当時から“桃介以来の名社長”との評判を得ていた。しかし石井の活躍ぶりは、ずっと以前から広く知られており、入社以来あらゆる場面で才能を発揮し、業界全体の発展にも影響を及ぼすような偉業を重ねてきた。  つまり、福沢桃介と石井健一郎、この2人の登場そのものが、日本の特殊鋼業界の歴史的瞬間といえるのである。今号では、その石井が“中興の祖”と讃えられる所以ともいえる、業界再編の歴史を追う。

イバラの道からの脱出
昭和35年5月、再度海外視察に出かけた際の石井氏ドイツ、ジュッセルドルフのライン河畔で(左から二人目)
昭和35年5月、再度海外視察に出かけた際の石井氏ドイツ、ジュッセルドルフのライン河畔で(左から二人目)

  「石井さんもやっとその気になったか・・・。」
石井の社長就任に際し、大同内外を問わず多くの人がこうした感想を漏らしたという。
本人の“満を持して”の決意とは裏腹に、すでにその存在は、大同の代表者として対外的にも確かな評価を得ており、石井を社長に待望する声は以前から聞こえていた。
  若き日の石井は、スポーツで養われた彼本来の判断力や度胸の良さに加え、現場と営業の双方に精通する貴重な存在として、大変な活躍ぶりを見せた。
  あるとき石井は、突然、築地工場に借り出され、戦時下の大量注文により、混乱を極めた納品管理の収拾を言い渡される。突然の任務にも関わらず、迅速かつ大胆な戦略で期待以上の成果をあげた石井は、この一件を機に「重宝な“手直し役”」という妙な評価を上層部から頂戴する。そのおかげでしばらくは、問題を抱える部署に派遣され、黙々と“手直し”にあたることになるが、そこで成果を挙げ、次第に会社にとって不可欠な存在へと成長していったのである。
  そして、時代は終戦を迎え、石井を取り巻く環境は一挙にシビアなものになっていった。
このころ、常に石井を悩ませ続けたのが人員整理の問題である。石井は、社長不在の会社における代表取締役専務という立場で、昭和24年、25年の人員整理に伴う大争議を矢面に立って経験する。
「戦後の混乱から立ち直るための止むを得ない陣痛だった・・・。」
苦々しいこの経験により、“首切り健一郎”という有難くない名を着せられたこともあった。
  後に特殊鋼業界のみならず、地元財界にも名を馳せるほどになった石井の華々しい実績とは、実は激動の時代に翻弄されながら、イバラの道を必死に歩んだ特殊鋼業の軌跡でもあったのだ。戦後処理として、大同を始め特殊鋼メーカー各社とも、工場ならびに人員の合理化に血の出るような苦痛を味わった。そして、この険しい道を歩んだ挙句、半数のメーカーが廃業か転業を余儀なくされるという、まさに特殊鋼不遇の時代を迎えた。さらに、必死にこの時期を生き延び、朝鮮戦争特需で活況に直面したかと思ったのもつかの間、やはりすぐに仕事はなくなったのである。
  「外国の特殊鋼会社では、一体何をやっているのだろう・・・。」
  イバラの道を脱するヒントを求め、石井は海外視察に出る。そこで、来るべきモータリゼーションの時代を予見し、後の知多工場へと結ぶ一大構想を立てるのである。

 

“歴史的瞬間”前夜
知多工場埋め立て工事の状況を感慨深くながめる石井氏。1960(昭和35年)
知多工場埋め立て工事の状況を感慨深くながめる石井氏。1960(昭和35年)

「自動車の時代が来る。これこそが、特殊鋼の生きる道だ。」
特殊鋼の未来は自動車と共にあると確信した石井は、海外視察を終え帰国するとすぐに、
明日の中部圏開発にもつながる一大プロジェクトを始動させるべく奔走する。
この時、石井が考えたのは、国際競争に勝ち抜くことの出来る大量生産の可能なプラントの建設であり、しかもそれは、大同一社では実現が困難と思われるほどの、かつてない大規模なもの。そこで石井は、特殊鋼業界全体で新しい会社をつくって手がけられないかと考える。つまり、企業の合同や集中による新体制という、後の業界再編の礎となる構想が、この時すでに芽吹いていたのである。

  ところが、順調に進行するかに見えたプロジェクトも、時流に乗ることができず、結局石井は大同一社で特殊鋼一貫製造拠点を建設するという決断を下すのであった。
  そして、ちょうどこのころ石井は、社長に就任している。前述の通り、周囲ではずいぶん以前から社長にとの声があがっていたが、本人は断固として断り続けてきた。その理由には、常に客観的視点で会社の行く末を見つめる石井ならではのこだわりが垣間見られる。
「大同の社長は“大物”であるべき。四十そこそこの自分が社長になったりすれば、会社も“小粒”なものになってしまう。」
という理由であったが、ついに石井も五十の声を聞き、副社長としての経験も積んだことで、“自己規制”を緩めることとなった。

港東橋から知多街道の大同町、柴田方面を望む 左側星崎工場(昭和34年9月)
港東橋から知多街道の大同町、柴田方面を望む 左側星崎工場(昭和34年9月)

  工場の建設用地が確保され、融資の目処が立ち、石井が社長の椅子についたことで、すべての準備が整った。と、まさにその時、経営トップの座に立った石井の采配振りを試すかのような大きな試練が降りかかる。日本の気象観測史上最大の被害をもたらしたといわれる伊勢湾台風の襲来である。
  これにより、大同の工場、社員等は甚大な被害を受け、一時プロジェクトは頓挫してしまう。しかし、一方で石井は復旧作業の陣頭指揮をとり、社員たちの士気を高め、驚異的なスピードで単なる復旧ではない“改良復旧”を実現する。経営トップとして全社を纏め上げる見事な手腕をはからずも証明したカタチとなった。さらに石井は、この不運に屈することなく件のプロジェクトを遂行。その結果は・・・、設立以来、現在も世界の特殊鋼業界をリードし続ける知多工場が物語っているのである。

 
 
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