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知多工場埋め立て工事の状況を感慨深くながめる石井氏。1960(昭和35年) |
「自動車の時代が来る。これこそが、特殊鋼の生きる道だ。」
特殊鋼の未来は自動車と共にあると確信した石井は、海外視察を終え帰国するとすぐに、
明日の中部圏開発にもつながる一大プロジェクトを始動させるべく奔走する。
この時、石井が考えたのは、国際競争に勝ち抜くことの出来る大量生産の可能なプラントの建設であり、しかもそれは、大同一社では実現が困難と思われるほどの、かつてない大規模なもの。そこで石井は、特殊鋼業界全体で新しい会社をつくって手がけられないかと考える。つまり、企業の合同や集中による新体制という、後の業界再編の礎となる構想が、この時すでに芽吹いていたのである。
ところが、順調に進行するかに見えたプロジェクトも、時流に乗ることができず、結局石井は大同一社で特殊鋼一貫製造拠点を建設するという決断を下すのであった。
そして、ちょうどこのころ石井は、社長に就任している。前述の通り、周囲ではずいぶん以前から社長にとの声があがっていたが、本人は断固として断り続けてきた。その理由には、常に客観的視点で会社の行く末を見つめる石井ならではのこだわりが垣間見られる。
「大同の社長は“大物”であるべき。四十そこそこの自分が社長になったりすれば、会社も“小粒”なものになってしまう。」
という理由であったが、ついに石井も五十の声を聞き、副社長としての経験も積んだことで、“自己規制”を緩めることとなった。
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港東橋から知多街道の大同町、柴田方面を望む 左側星崎工場(昭和34年9月) |
工場の建設用地が確保され、融資の目処が立ち、石井が社長の椅子についたことで、すべての準備が整った。と、まさにその時、経営トップの座に立った石井の采配振りを試すかのような大きな試練が降りかかる。日本の気象観測史上最大の被害をもたらしたといわれる伊勢湾台風の襲来である。
これにより、大同の工場、社員等は甚大な被害を受け、一時プロジェクトは頓挫してしまう。しかし、一方で石井は復旧作業の陣頭指揮をとり、社員たちの士気を高め、驚異的なスピードで単なる復旧ではない“改良復旧”を実現する。経営トップとして全社を纏め上げる見事な手腕をはからずも証明したカタチとなった。さらに石井は、この不運に屈することなく件のプロジェクトを遂行。その結果は・・・、設立以来、現在も世界の特殊鋼業界をリードし続ける知多工場が物語っているのである。
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