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大同製鋼、日本特殊鋼、特殊製鋼の三社合併。合併契約書調印の様子。1976年(昭和51年) |
激しい時流の中にあって、まさに血と汗のにじむような経営努力を重ね、大同を育て上げてきた石井。その道のりを振り返れば、決して幸運を味方につけて歩んだことばかりではなかっただろう。
しかし、あえて石井は社長になるには、単に実力ばかりでなく、運が必要だと語っている。確かに、入社から社長にいたる経緯を考えるとどこか“運命”のようなものを感じる。石井曰く、例えば東邦電力という大企業に入社するはずが、大同関係者に挨拶に行ったことで一転し、当時まだ小さな会社だった大同電力製鋼所に入社してしまったのも運、終戦後のパージで上司が皆いなくなってしまったのも運、というわけだ。
また、石井は「経験を活かすも殺すも気力と体力があってこそ」という、ある種の達観を持っており、健康と適齢を欠くことのできない “社長の条件”としてあげていた。そして、その点においても自らの社長就任の契機に強運を感じずにはいられなかった。
こうした運に恵まれて社長に就任した石井は、常に業界全体を見渡し長期的な展望を掲げながら大同を大きく育て上げていく。当時、政府の景気調整策と市場における過当競争等によって、特殊鋼業界は戦国時代の様相を呈していた。こうした状況の中、石井は特殊鋼メーカーの生き残る道を“自動車業界をターゲットとした量産体制”に見出し、それを実現するためには企業合同、集中による経営体制をつくり、業界の再編成も臆せずはかっていくべきという“サバイバル構想”を提唱した。
あまりに大胆なこの構想は、周囲には受け入れられ難いものであったが、知多工場に関するプロジェクトの時と同様に、石井は飽くまで、この構想の実現に執念を燃やした。厳しい環境下で、もっぱら自社の競争力強化をはかり、積極的な合併を成功させ、業界再編成をリードするカタチをつくって行ったのだ。
こうして、15年にわたり自社を統率し、業界を先導しつづけてきた石井は、昭和48年に
その席を辞す。そして、先の“社長の条件”を熟慮して後任人事の選定にあたった。大同社内には、石井の巧みな人材育成が功を奏し、自分の後任に申し分のない人材が複数育っていたが、石井はその人として、新日鉄の専務取締役であり、名古屋製鉄所所長であった武田喜三に白羽の矢を立てた。あえて、社外の人間を選ぶことで、自分が退いた後に進む業界再編成にむけての “仕掛け”をつくっておいたのである。
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