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時は日本中がバブル崩壊後の長いトンネルの中で喘いでいる時期であった。いくら引き合いがあるとはいえ、初めて製作する磁気シールドルームを、限られた予算の中で完成させるのは、とうてい不可能なように思われた。なにしろ磁気シールドルームが、満足な性能に達成しているかを測定する装置だけで、ウン千万円もするのだ。
「当時の日本の経済状況では、莫大な先行投資をするような環境ではなかったので、開発にどうしても欠かせない測定器などの高額機器は、個人的なツテで借りて来たりして、どうにかヤリクリしていた状態でした。」
伊丹がそう振りかえるように、90年代初頭の日本は、業務の効率化や設備投資の抑制が大命題になっていた。
限られた資金の中で、開発部では試行錯誤が繰り返され、およそ2000点を越す部品を試作した。借り物の測定機を傍らに、専門家でも研究者でもない伊丹自らが、性能調査することもしばしばだった。
かくして磁気シールドルーム第1号は、筑波大学心臓外科の教授室内に設置された。1994年2月のことである。完成したシールドルームは、性能要求の数値を大きく上回る、高度な出来映えであった。心磁計用シールドルームの成功で伊丹をはじめ、山口らも加わった開発チームは、磁気シールド事業の未来に、確かな自信を得はじめていた。 |
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しかし伊丹らが、再び頭をかかえる日は、そう遠くはなかった。心磁計用磁気シールドルームはその後の引き合いは少なくなかったのだが、それはごく限られた研究機関などにおけるもので、これが一般病院への普及となると、いっこうにメドが立ってこないのだ。
「なにしろ心磁計は医療保険の対象とならないため、設備全体が非常に高額な分、診療費も、一般の人が受診できるような金額ではなくなってしまうのです。」
採算ベースに乗るような普及が見込めない、開発費はドンドン発生する。こうした赤字続きの状態が、いつしか社内における事業撤退の機運を生み、磁気シールドルーム事業は、落日に向かうようであった。
そんな折、彼らが培った磁気シールド技術の評判が、また新たな引き合いをもたらした。それは常に前向きな伊丹をしても、大きな苦悩にさらされるだけのプロジェクトだった。 |
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「受けるべきか、断るべきなのか…」
伊丹ら開発チームは頭を抱えた。新たな引き合いは、脳の生体磁気を測定する、いわゆる脳磁計用のシールドルームだった。これは心磁計に比べ、さらに微弱な磁気を測定するもので、地磁気などの遮断率も大幅に向上させなければならない。山口曰く、「パーマロイの壁面を多層にしたりするのですが、設置場所のスペースの問題、コストの問題など、この時の引き合いばっかりは、どう考えても大赤字になってしまう。それも事業撤退も考慮されていたあの時期です。」
脳磁計用の引き合いを受けた帰りの電車で、伊丹と山口はため息をついた。
しかし、「お客様は騙せないが、会社の方はとりあえずなんとか言いくるめて、今回の開発を全うしよう」二人はお互いに、そして自らに誓った。
そして伊丹の粘り強さが再び本領を発揮するのである。
「撤退すら検討されていたこの時期に、赤字はマズイでしょう。ですから私の作った事業計画は、実際の予測より大幅に甘いモノにして提出しました。」
伊丹はこれを持って、社内的な承認をとるべく奔走した。もちろん当時の開発部長には事実をありのままに述べた。
「このプロジェクトに関していえば、実際に事業として利益を出す自信はありません。しかし、生体磁気医療が保険対象になるなど、明るい材料がたくさんあります。大きな社会貢献になる磁気シールドルームには明るい未来が広がっているのです。」
会社の決断はGOだった。その理由は、『例え赤字になっても、革命的な医療技術の進化という社会貢献に寄与できるなら』というものであった。 |
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始めは赤字が危ぶまれた脳磁計であったが、伊丹らの粘りは、関係機関や協力会社などの大きな協力を取りつけ、どうにか完成を見る。そして2号、3号機を世に送り、今や4号機を開発中である。そして来年にはいよいよ生体磁気医療が保険対象となり、磁気シールドルームの普及にも眩い光明が見えてきた。
「いつだって世界最高のものを造ってやると思っている」と伊丹は言う。そしてそれは毎度のこと。新しい開発のたびに「世界最高」をかかげ、それを実現してきた。
そんな開発者の精神と大同の総合力が、いよいよ医療革命の一端を担う日が近づいてきているようだ。
伊丹は年齢的に大同を去る日が近づいている。しかしここ数年、伊丹と二人三脚で伊丹イズム、大同イズムを学んだ山口が、心技ともに”ミスター磁気シールド“の後継者として控えている。
営々と受け継がれていく大同イズム。これを失わない限り、大同の未来も輝き続けるに違いない。 |
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