世界の頂点に君臨する特殊鋼一貫製造拠点
知多工場

未曾有の大惨劇

昭和34年 伊勢湾台風により水没した星崎工場正門付近
▲ 昭和34年 伊勢湾台風により水没した星崎工場正門付近
 昭和34年。折からの台風は東海地区にさしかかり、俄然猛威を振るい襲い掛かった。世に言う伊勢湾台風である。日本台風史上空前の惨劇となったこの台風で、大同も工場周辺の寮や社宅に住む従業員とその家族に被害が及び、多くの犠牲者を出す事態となったのだ。またこれにより、大同の主力製造拠点であった星崎、築地両工場はズッポリと水につかり壊滅的な打撃を受ける。
 主力生産拠点が設備的にも人的にも甚大な被害をこうむったということは、ともすれば社運すら絶たれかねない状況であったといっていい。
 ところがこの逆境下で、会社全体が一丸となって急ピッチの復旧作業を進め、ほんの2ヶ月以内で完全操業へとこぎつけたのである。一体何が、この悲劇の最中、大同社員を結びつけ奮い立たせることが出来たのであろうか?
 その要因のひとつは、某高炉メーカーによる慈善的ともいうべき生産援助であり、そしてもうひとつは石井自らの陣頭指揮であったといえよう。
 すべてを失い路頭に迷う従業員達に、石井は自らが先頭にたって炊き出しを行い、握り飯を自分の運転する車で配って回ったというエピソードが残っている。誰もが悲嘆にくれ、ただ呆然とする中で、TOP自らの求心力は、従業員一人一人に染み渡った。こうして、みなが大同社員としての誇りをもって果敢に試練に立ち向かう士気が高まっていく。結果、周囲の予想をくつがえす超短期間での復旧を実現し、むしろ前期を上回る好調な実績をあげることとなるのである。
 

恩は返さなきゃ

昭和37年10月16日、石井社長により月産3万トンの新鋭分塊圧延機にスイッチが入れられ、知多工場は動き始めた
▲ 昭和37年10月16日、石井社長により月産3万トンの新鋭分塊圧延機にスイッチが入れられ、知多工場は動き始めた
 こうなると、石井は再び悲願の新工場建設へと突き進むのである。
 「大同だけでも、やり遂げなければ…」
そして、大同の将来、特殊鋼の未来を見据え、石井が一心にその建設を誓い続けてきた新工場は、昭和38年、遂に知多の地に完成をみる。莫大な費用を要し、破格の規模を誇る知多工場は、製鋼、分塊、圧延の一貫工場として、世界の特殊鋼技術の粋を集めた生産プラントとなった。
 しかし、なにしろ設備はすべて最新鋭のもの、そして前例を見ない莫大な規模の生産体制とあって、操業スタート直後には、トラブルも絶えなかった。当時、生産管理の仕事を任されていた冨田は、
 「生産管理をやれといわれて、帳簿とにらめっこしていればよいだけかと思えば、とんでもない。新工場のスタートから半年くらいは、現場に出て行ってトラブルの原因究明に明け暮れる毎日でしたよ。」
と、当時の様子に苦笑する。
 かつて経験したことのない莫大な生産規模が、予期せぬトラブルを招くこともあった。しかし、冨田らは、飽くことなく一つ一つ原因を究明し、的確に対処していき、程なく知多工場は落ち着きを見せ始めた。
 次に冨田が心配に思ったのは、
 「こんなに造って、はたして本当に見合うだけ売れるのだろうか?」というものだった。ところが、冨田らの心配は杞憂に終わる。知多工場完成の翌年、いく度もの試練を石井と大同に与えてきた天は、ついに石井らに微笑むのだ。冨田が“神風”と称すソ連からの大量受注が舞い込んだのだ。これを機に知多工場は軌道に乗り、その後、昭和40年代には国内自動車産業の急伸を受け、常にフル稼働で優れた製品を製造供給し続けることとなる。知多工場は、石井が予見したモータリゼーションに間に合ったのだ。
 石井という希代のリーダーのもと、大同は幾多の試練を全社一丸となって乗り越え、知多工場建設の勝負に挑んだ。その結果、モータリゼーションの波に間に合い、むしろその波を先導する役目を果たしたといえる。この勝利によって、より強固に確立された大同魂は、今も脈々と引継がれ、石井の思い描いた特殊鋼業界のさらなる飛躍を常に支え続けている。
 ちなみに伊勢湾台風の大打撃を受けた時、某高炉メーカーから受けた生産援助を目の当たりにした青年冨田は、後に自身が社長についたその任期中に、阪神淡路大震災で逆に大打撃をこうむったこの某高炉メーカーに、一も二もなく生産援助を決めた。
 「石井さんの時に受けた恩は、なんとしても返さないとって思いましてね。」
 時を隔て変わることない石井イズム、大同イズム。そして今なお世界をリードし続ける知多工場。衰えることを知らない大同の源泉は今も息づいている。
 
 
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