“名古屋は日本のマンチェスター” 産業革命発祥の地になぞらえて、桃介はそう語った。 名古屋電燈の電気炉による製鋼スタート以来、桃介の思惑通りこの地を中心に日本の製鋼業は進展していった。おりしも時代は、第一次世界大戦の勃発をむかえ、特殊鋼の輸入は非常に困難になりつつあり、当然在庫も底をつきはじめていたころ。 そうした状況の中で、名古屋電燈製鋼部は、このアーク炉の完成から程なく、大正5年8月19日に電気製鋼所として独立。寒川の手がけたエルー式アーク炉は、当時のルツボ炉製鋼、酸性平炉製鋼に比較して、生産性・品質面で大きな優位性を誇り、他社の追随を許さない品質に優れた製品で市場を独占する勢いであった。 しかしながら、その後は激動の時世にあって、 あるときは操業中止や鋳鋼への転身を余儀なくされ、また一方では、著しい技術的進化を遂げと言ったことを繰り返しながら、歴史を進めていく。会社組織としても、分離独立、合併などを経て、現・大同特殊鋼へと向かっていくのである。その過程では、天才福沢桃介の先見の明や巧妙な人材登用と、その経営手腕が遺憾なく発揮されているわけであるが、その点については、また別の機会にご紹介したい。
『要するにいかにして社会に立つべきかは、時勢に応じて改めなければならぬ者である。』 桃介伝の中で、その時代の偉人と呼ばれる人々を比較し、すでに過去のものとして廃れてしまった主義や、現代的で適切だと感じられる主張について言及し、桃介はこう結論付けている。おそらく当時としては、珍しい柔軟な思想であろう。桃介本人の思想を書物から辿ってみても、敏腕を振るう相場師としての“金至上主義”から、周囲を圧倒するほどの信念を貫き通す野心的実業家としての“理想主義”、そして国のための事業を堅実に残そうとする良質の経営哲学を醸成していったように思われる。そして主義は変化しても、その根幹となっているのは、“機を見るに敏、人の架けた橋を渡らない”と評された桃介の精神なのである。一方、現代の大同には、時代の要求を読み、前代未聞の性能、画期的技術等を生み出すため日々挑戦を続ける技術者の姿がある。 どうやら、創業者のたくましいパイオニア精神が、確かなルーツとなって今日の大同魂を育て上げてきたようである。
〔参考文献〕 福沢桃介生誕100年展 記念講演/福沢桃介の足跡をたづねて/特集記事 「出る杭であり続けた男」/日本の電力王 福沢桃介 大同の歴史 ミニ社史/シンポジウム記録 中部の電力のあゆみ/鬼才 福沢桃介の生涯/桃介式/大同特殊鋼50年史